よしながふみ漫画研究会
よしながふみのマンガの描き方に興味を惹かれたという人は、上記2作品あたりから増えていたようで、2004年5月には、藤本由香里・竹宮恵子・夏目房之介によって、『愛すべき娘たち』『西洋骨董洋菓子店』などのよしながふみ作品を分析する研究会が開かれていたらしい。
当時の記録として、
- 羊雲通信 よしながふみ漫画研究会(2004/05/31)
- 伊藤剛のトカトントニズム 夏目-竹宮-藤本による「よしながふみ」 (2004/06/01)
- 夏目房之介の「で?」 マンガ史研究会 (2004/05/30) ※これも元記事が消えているのでインターネット・アーカイブより
などがある。
よしながふみ『愛すべき娘たち』白泉社
よしながふみについては、『西洋骨董洋菓子店』の感想を書いたことがありますが、そこで紹介したインタビュー記事を読んで改めて思ったのは、よしながふみという漫画家は「物語をどのように作っていくか」ということにとても自覚的な人なんだな、ということです。この作品集を読んで、その印象はさらに強くなったのですが、それはこの作品集に収められた5話の短編に共通するパターンがあり、それが決して偶然の産物とは思えなかったからです。そのパターンというのは、ストーリーの終盤の展開とそれを描く方法に関するものですが、かいつまんで書くと
- 各話の中心となる人物は、終盤になって、自分の中でそれまで形になっていなかった感情が形作られていることに気づく
- その人物がその感情を受け入れる様子が、無言のコマ(主にその人物の表情の変化(+感情を生み出した対象が挟まれることもある))で1ページ前後費やして描かれる
- 最後は、ある情景を描いた大ゴマ(1ページ〜半ページ)で終わり、そのコマは余韻を出すためか、余白が多用される
という感じですね。※あらためて読み返してみると、よしながふみは無言のコマを使うのがとてもうまいですね。
もちろん、漫画家には誰にもその人なりの方法論というのはあるのでしょうが、よしながふみのように、その方法論が明確で、なおかつ、それが決して浮いたものにならないというのも珍しい気がするので、この人の作品はまたしばらく追いかけてみようかと思います。
(2004/03/03)
よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』全4巻 新書館
男4人だけで営業している西洋菓子店「アンティーク」。
その店を舞台に繰り広げられる人間模様を描いたコミック。
前半はほぼコメディと言っていい内容だと思いますが、2巻の終りで一人の登場人物の秘密が明らかにされてからは、結末に向かって一直線に話が進んでいきます。そうした中で、最初は「とぼけた」設定に見えたもの(「なぜケーキ屋なのか」「なぜ深夜までの営業なのか」「なぜヒゲなのか」といったこと)が徐々に閉じていき、一つの出来事に集約されていく様子は、出来の良いミステリに通じるものがあると思いました。 こちらの著者インタビュー(※既にリンク切れなのでインターネットアーカイブより)を読むと、これらがキチンと計算されたものであることもよくわかります。とりあえず一部分だけ引用。
エンタテインメントには、ある程度の驚きが必要で、それが物語の順序を入れ換えるだけで生まれてくるんなら、駆使しちゃおうと
それと、この物語の主要登場人物たちは、それぞれに心に「深い傷」を負っているのですが、それを「何かをしない/できないこと」の言い訳にするのではなく、生きる/仕事をする上でプラスなものとしている点が読後感を良いものにしているようにも思います。そういう意味で、私はこの物語のラストシーンがとても好きなのでした。
(2002/12/28)
よしながふみインタビュー
昔の「Webとらのあな」に『フラワー・オブ・ライフ』連載時のよしながふみのインタビューが載っており、今でもインターネット・アーカイブから読むことができる(こちら)。同じところから『ハチミツとクローバー』連載時の羽海野チカのインタビューも読める(こちら)のだが、併せて読むとなかなか興味深い。
- どちらも「大人になること」をテーマにしている
- どちらも結果として、群像劇を指向することになる
- よしながふみ
それまで3人だけの話だったのがクラスみんなの話に、群像劇になることが出来たと思います。この話ではやっぱり春太郎の意見っていうのは一意見でしかないみたいな、なんかこうみんなはみんなでそれぞれバラバラのことを考えているんだよっていう感じのことが言いたかったんじゃないのかなと思うんです。
- 羽海野チカ
(羽海野さんのマンガの)先生はどのキャラクターにも愛情を持って描かれていたので、ちょっとだけしか登場がしないキャラでも単純に脇役として、敵役として、主人公の引き立て役として存在しているんじゃなくて、理由があって生きているんだなっていう事をすごく感じたんです。だから「ハチクロ」も「脇役として登場する人物はなくそう。全員自分の人生を生きていることを表現しよう」といきなり大きな目標を持って描き始めました。
- よしながふみ
『フラワー・オブ・ライフ』の感想の最後に書いたことは、要するに「相手を尊重する」ということになりますが、それは「好きにしたら」とか「あなたのやり方に文句をつけるわけではない」というふうに「相手が自分と関係ない」と暗黙に前提してしまうのではなく、逆に「これからも自分と関わっていく人たちが、自分とは対立する行動・意志を持つことも積極的に認めていく」ということでもあります。
それは「自分以外の人間を、自分自身の投影、分身、理想などとして見る」ことからは決して生まれるものではなく、そのため両作品では「それぞれがバラバラの考えを持つ」「全員が自分自身の人生を生きている」ことが描かれる必要があったのではないかと思います。
よしながふみ『フラワー・オブ・ライフ(全4巻)』(新書館)
最初の1、2巻は普通に高校を舞台にした学園コメディ風なのだが、3巻からは、あるテーマを中心に話が周り始める。注意して読むとわかることだが、3巻の各話には「感情を表す(というか爆発させる)」シーンが含まれ、4巻では「あることを相手に伝えるか伝えないか(大抵は迷う)」というシーンが含まれている。
さらに4巻では話が進むにつれ、「大人」という言葉が繰り返し現れるようになる。そして、「大人」のイメージの一つとして「自分のことは自分で決められる」という言葉が出てくる(P91)。しかし、「自分のことは自分で決める」といっても、どのようにそれを決めていくのだろう?
3巻で登場人物たちが見せる「感情の発現」は、実に高校生らしい、微笑ましいという感じのものばかりだが、4巻で「相手に伝えるか伝えないか」という内容は徐々にハードなものになっていく。このマンガの主人公格の一人である「春太郎」は、隠し事のできない、嘘のつけない、真直な性格の男の子で、自分の周囲の人間もそういう人間であるということを疑っていない。4巻の後半は春太郎が中心となる話だが、彼はその中で、「伝えること」と「伝えないこと(これはつまり隠し事に重なる)」の重みを知ることになる。
彼は、また、最終話で新しく知った事実を友人に「伝えるか伝えないか」を「自分で決める」ことになるのだが、それは最後の独白のような形になる。その独白が意味するのは、「自分で決める」=「自分がしたいからそうする」ということでは決してなく、「自分の行動が周囲にどう影響を与えるか」「伝えたことを相手はどう受け止めるか」を考える、言い替えれば「自分が行うことに影響を受ける人たちのことを自分と同じように考えることができるか(少なくともその努力をしようとするか)」ということになるだろう。そして、その「自分の広がり=自分の周囲までを含めて自分と同じように考えること」こそが、春太郎にとっての「大人」の意味となるのである。
(2008/04/02)