岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』(朝日文庫)
簡単に要約すると、
- 現代では、かつての「科学」や「経済」のような一元的な価値観は成立しない(それらがもたらすとされた「発展」というプラスイメージが「限りある資源」という現代人なら誰もが持っている閉塞感によって否定されるため)
- かわって、個人個人が独自の価値観を持つ社会がやってくる(というより、ある価値観で結ばれた集団がいくつも重なり合って現れる)
- その価値観が従来の集団(会社、地域、同窓、家族など)と重なることは無くなり、パソコン通信のフォーラム、コミケ・同人誌などのサークル活動のような新しい(特に若い世代に影響力の大きい)集団が形成される
- 「洗脳」とは、このような「ある価値観を持った者が他の価値観の者を取り込んでいくような行動」を指す。新しい世界ではこの「洗脳」という行動が鍵となる
- そして、それには「マルチメディア」という技術が大きく貢献する。
ということになりますか。オリジナルは1995年発行です。
なかなか面白い本でしたが、気になった点も挙げておきましょう。
- 全体的に議論が荒い
- これは本の性格を考えるとそれほど大きな欠点とも言えないでしょうが、人によってはこれだけで切り捨ててしまう可能性があるので、ちょっと勿体ない気がします。
- 「洗脳」の意味が広すぎる
- この本のキーワードである「洗脳」は、「違う価値観を持った者が、他人の価値観に影響を与える」ということを(この本では)意味しているわけですが、その意味を「コミュニケーション一般」にまで広げている(つまり、誰かが意図を持って起こした行為は全て「洗脳行為」としている)箇所があるのは、やり過ぎのような気もします。違う価値観を持つ者同士でも、コミュニケーションは成り立つでしょうから。
- 「洗脳社会」のマイナス面の考察が弱い(というか無い)
- これはあえてそうしているのかもしれませんが、ちょっと気になる点でした。例えば、過去の「農業革命」「産業革命」と現在進行中の「情報革命」を並べて、
技術は、権力者の特権を市民に開放する
という原則を紹介するのですが、それでは「情報革命」で「情報発信という特権」が開放された後に、権力者が持つ「特権」とは何なのか、または、どんな「特権」を持った者が権力者となるのか、という考察は見あたりません。(「権力者」は存在しなくなる、ということかもしれませんが)
- これはあえてそうしているのかもしれませんが、ちょっと気になる点でした。例えば、過去の「農業革命」「産業革命」と現在進行中の「情報革命」を並べて、
最後に私の感想ですが、「世の中にいろいろあるとされる「価値観」というものが、とても静的に描かれているのが嫌だな」というところです。
例えば、「洗脳社会での「自分」」(文庫本P218〜219)という節に、洗脳社会では「自分」というものは、いろいろな価値観における自分の位置の総体のことになる。つまり、「自分を表現する」とは、「いろいろな価値観から自分の気に入ったものをコーディネートすること」になる、という考えが紹介されます。しかし、それでは、
- 世の中には決まった尺度を持った価値観がいくつか存在し
- 「このレベル(の知識)をクリアすれば、あなたの地位はこれくらい」と誰かが判定している
ように思えて、そこがどうも嫌でしたね。
(1999/9/24)