円堂都司昭『ゼロ年代の論点』(ソフトバンク新書)

ゼロ年代の論点 ウェブ・郊外・カルチャー (ソフトバンク新書)

  1. 2000年から2010年まで(いわゆるゼロ年代)に発表された「批評」を元に、その論点とされるものの「軸」と「方法」に焦点をあて、ゼロ年代全体の議論を再構成しようとした本。「軸」は「情報空間」と「物理空間=生活環境空間」であり、「方法」はそれぞれの「アーキテクチャ」と「生態系」の解明である、とまとめることもできるだろう。
  2. アーキテクチャ」とは「建築」もしくは建築物の「構造」を指し、「設計=デザイン」という概念と密接に関係する。一方の「生態系」は、生物学から出た用語で、生物社会を在りのままに観察することで把握される。つまり、「アーキテクチャ」には「設計」するものの意図がなにかしら反映され、「生態系」にはそこを生きているものが何を選択し、環境をどのように利用しているかが現れることになる。そして、現代において「アーキテクチャ」的(つまり、設計意図が認められる)なのは「物理的な生活空間」であり、現代のソーシャルメディアを使った情報空間は、逆に「アーキテクチャ」的な色が薄まっているという印象がある。これはもともと「特定の話題に興味のある者の中で閉じていた」情報空間が、現在ではそれにとらわれない、より広い交流を生んでおり、現代人がそれを望んで選択している、ということになるだろう。(そういう「アーキテクチャ」が好まれていると言った方が良いかもしれない)
  3. 一方で、現代の物理的な生活空間には、ある程度「アーキテクチャ」が関与している。それは何かと言えば、無難に答えれば「安全・利便」であるが、これはよく言われるように「監視/排除」と裏表の関係でもある。要するに、「安全」を守るためには「不審者」を排除するようなアーキテクチャが必要になるわけである。そして、そのようなアーキテクチャは私たち自身が望んで受け入れてきたものでもある。今後の「情報空間」で、「アーキテクチャ」に何が望まれて行くのかは新たな興味の種であり、情報産業に従事する者には「飯の種」となるかもしれない。

「おたく第1世代」は「オンライン→オフラインコミュニティ造りの第1世代」でもあった、ということは知られているのだろうか?

『ぼくたちの洗脳社会』は、今でもWEB上で全文が読めるので、興味のある方はどうぞ。

ひょっとすると、若い人だと著者の岡田斗司夫を知らない人もいるかもしれないので、経歴などはWikipediaを参照ください。1958年生まれの、通称「オタキング」。正真正銘のおたく第1世代です。「愛國戦隊大日本」は、さすがにYouTubeにもあがってますね。
それから初期の活動にある「ガレージキット」というのはアニメキャラのフィギュアのことだと思ってください(2003年の記述に「ガレージキットの草創期から公私にわたる交友がある海洋堂と組んで食玩開発」という記述もあります)。

さて、『ぼくたちの洗脳社会』に書かれていることは、今からはどう見えるでしょうか? 「マルチメディアを介して新しい集団が形成されて行く」という事に関して言えば、当時のパソコン所有者のほとんどは、ごく普通に予想していたことだと思います。なぜなら、既に1990年あたりから「パソコン通信」で同好の士が「オンライン」でつながり、「オフライン」で実際に顔を会わせる「オフ会」も頻繁に開かれるようになっていたからです(インターネットの普及自体はもう少し後になりますが)。

なので、私の感想もそこから外れた、

  • 著者が、今後現れるであろう新たなコミュニティで「洗脳」という名の「権力闘争」が起こるだろう、と予測していること
  • 今後の自己表現のあり方とされる「価値観のコーディネイト」が、自発的なものというより、他者からの評価が前提されているように感じられること

を念頭に書いているわけです。

これはこれで、今でも持ち越されているテーマなのかもしれませんが。

岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』(朝日文庫)

ぼくたちの洗脳社会 (朝日文庫)

簡単に要約すると、

  • 現代では、かつての「科学」や「経済」のような一元的な価値観は成立しない(それらがもたらすとされた「発展」というプラスイメージが「限りある資源」という現代人なら誰もが持っている閉塞感によって否定されるため)
  • かわって、個人個人が独自の価値観を持つ社会がやってくる(というより、ある価値観で結ばれた集団がいくつも重なり合って現れる)
  • その価値観が従来の集団(会社、地域、同窓、家族など)と重なることは無くなり、パソコン通信のフォーラム、コミケ・同人誌などのサークル活動のような新しい(特に若い世代に影響力の大きい)集団が形成される
  • 「洗脳」とは、このような「ある価値観を持った者が他の価値観の者を取り込んでいくような行動」を指す。新しい世界ではこの「洗脳」という行動が鍵となる
  • そして、それには「マルチメディア」という技術が大きく貢献する。

ということになりますか。オリジナルは1995年発行です。

なかなか面白い本でしたが、気になった点も挙げておきましょう。

  • 全体的に議論が荒い
    • これは本の性格を考えるとそれほど大きな欠点とも言えないでしょうが、人によってはこれだけで切り捨ててしまう可能性があるので、ちょっと勿体ない気がします。
  • 「洗脳」の意味が広すぎる
    • この本のキーワードである「洗脳」は、「違う価値観を持った者が、他人の価値観に影響を与える」ということを(この本では)意味しているわけですが、その意味を「コミュニケーション一般」にまで広げている(つまり、誰かが意図を持って起こした行為は全て「洗脳行為」としている)箇所があるのは、やり過ぎのような気もします。違う価値観を持つ者同士でも、コミュニケーションは成り立つでしょうから。
  • 「洗脳社会」のマイナス面の考察が弱い(というか無い)
    • これはあえてそうしているのかもしれませんが、ちょっと気になる点でした。例えば、過去の「農業革命」「産業革命」と現在進行中の「情報革命」を並べて、
      技術は、権力者の特権を市民に開放する
      という原則を紹介するのですが、それでは「情報革命」で「情報発信という特権」が開放された後に、権力者が持つ「特権」とは何なのか、または、どんな「特権」を持った者が権力者となるのか、という考察は見あたりません。(「権力者」は存在しなくなる、ということかもしれませんが)

最後に私の感想ですが、「世の中にいろいろあるとされる「価値観」というものが、とても静的に描かれているのが嫌だな」というところです。

例えば、「洗脳社会での「自分」」(文庫本P218〜219)という節に、洗脳社会では「自分」というものは、いろいろな価値観における自分の位置の総体のことになる。つまり、「自分を表現する」とは、「いろいろな価値観から自分の気に入ったものをコーディネートすること」になる、という考えが紹介されます。しかし、それでは、

  • 世の中には決まった尺度を持った価値観がいくつか存在し
  • 「このレベル(の知識)をクリアすれば、あなたの地位はこれくらい」と誰かが判定している

ように思えて、そこがどうも嫌でしたね。
(1999/9/24)