大塚英志「文学自動製作機械」(群像2003年9月号)

  1. なんだか妙なテキストである。要するに、「最近、既存作品のサンプリングや構図を変換するだけで作品を仕上げてしまう作家がエンターテインメントの分野からかなり出てきているが、その中で「舞城王太郎」だけを「文学」として取り上げ、プッシュしている理由を(仕掛け人である)福田和也は説明せよ」ということのようだ。好意的に見れば、「舞城王太郎」をネタに「文学」についての議論を活性化させようということなのだろうが、どこかしら業界内闘争/仕掛けの匂いがするのだった。
  2. 大塚英志の仕事には面白いものもあるが、文芸・マンガ評論の仕事の中には、業界向けの発言が忍び込んでいるものがあって、そういうのはあまり面白く感じることができない。今回の発言に、どこかすっきりしないものを感じるのも、大塚英志佐藤友哉を後援していたり、キャラクタ小説の書き方を一般向けに指導する仕事をしていたりすることが頭にあるからかもしれない。要するに、「舞城を押すのなら、こっちの方もお願いしますよ」みたいな話に落ち着くんじゃないかと邪推しているわけだ。
  3. ジャンルとしての、または、マーケットや業界としての「文学」には、興味がないのだが、「芸術・表現」ということなら、岡本太郎『今日の芸術』(光文社知恵の森文庫)に書かれていたことが最も納得がいく。この本は「切実に表現したいことがあるなら、とにかく表現してみろ。それが(俺にとっての)「芸術」であることは俺が保証してやる」という内容の、何とも頼もしい檄文を含んでいる(もちろん、それで「傑作」ができるとか「他人にも価値があるものができる」とかいうことは保証しない。そんなことを考えていたら「芸術」など成り立たない、というところまで含めて「岡本太郎の芸術」である)。最近の舞城王太郎作品には、デビュー当時の奇妙な「熱」は薄まり、どこか「書かせられている」という感じは確かにあるのだが、「このアイデアを形にしたい」という意気込みは感じている。