仲俣暁生「極西文学論序説」(群像2003年9月号)

  1. 「見下ろす視線(神の視線)」と「見上げる視線(我々の視線)」を文学作品、評論の実例から論じ、それを「極東(与えられた私たちの位置)」と「極西(私たちの位置の別の可能性)」に重ねる試み、なのかな(まだ連載中なのでハッキリしない)。両者の比較というより、両者を行ったり来たりすることで見えてくるものを探るということらしい(筆者のはてなダイアリを読むと、「視線の往還」という表現があった)。「極西」というのが「アメリカを意識した日本の位置」というのは、一つのポイントなのだろうか。
  2. これも微妙に「公/私」「大きな物語と小さな物語」の話と重なる部分がある。2つの分裂への対応方法は、「我々の視線」の問題、つまり「見方次第でどちらにも立つことは可能」ということだろうか。それとも「往還」の時にできる回路・階梯が鍵ということだろうか。
  3. 著者とはほぼ同年代になるが、この年代の人間でこの手の話に積極的に関わっている人をあまり知らないので注目している。雑誌「InterCommunication」の稲葉振一郎氏の連載はそれに近いのかもしれないが、まだまだ先は長そうだし。山形浩生『新教養主義宣言』は、「自分の周りのことばっかり言ってても、世界で何かしようと思ったら誰も相手なんかしてくれないんだよ。そっちで何かやりたいんなら、まずはちゃんと勉強しやがれ!」という喝だからまた方向が違うし。