仲俣暁生「極西文学論序説 (2)」(「群像」2003年10月号)

  1. 仲俣氏には『ポスト・ムラカミの日本文学』(ISBN:4255001618) という著書があるが、今回は明確に「村上春樹批判」である。批判点を抜き出すと次のような感じになるだろうか。
    • 村上春樹は「アメリカ」を、自分自身を「個」として確立するための点として必要としていた(村上春樹自身の言葉は「僕にとってアメリカはいわば同心円を回避するための護符のようなものであった…同心円というのは、僕を中心とする、僕→家族→共同体(学校・職場)→国家、という精神的連続性を有する同心円のことである」)
    • それは、「アメリカ」という「外部の点」がなければ、自分という個が、家族から国家に至る共同体の中に埋もれてしまうという感覚から逃れられなかった、ということだろう
    • しかし、ベトナムで傷ついて以降の「アメリカ」は、その力を失うことになる
    • 村上春樹はそれ以降、「アメリカ」以外の「外部の点」を探していたのではないだろうか。その一つの試みが『ねじまき鳥クロニクル』における「かつての日本のフロンティア=日本の西に位置する満州」であったのかもしれない
    • しかし、1995年の「阪神大震災」「地下鉄サリン事件」を経験した村上春樹は、この2つを結びつけ、これを「外部の点」とする
    • それは「不可知のもの」としての「外部」であり、それに対する「恐怖」が村上春樹の小説では前面化することになる
    • しかし、小説の使命とは、例えば「恐怖」のようなあいまいな感情にも言語のかたちを与えることではなかっただろうか
  2. ここで、私自身にとっての「村上春樹」について述べよう。私にとって村上春樹の小説とは、「自分自身」と「ありえたかもしれないもう一人の自分自身=分身」をめぐる物語である。初期三部作は「ありえたかもしれない自分を封印する」物語として読んだ。『ねじまき鳥』以降は読んでいないのだが、近作で「少年」を主人公にしている点は気になっていた。その主人公は「作者の分身」なのか、それとも「本当に現代を生きる少年」なのか。『ノルウェーの森』は、「回想」で始まり、そこから戻ることなく終ってしまう小説だったが、村上春樹の近作の主人公は「回想」から戻ってきているのか、いないのか。
  3. 村上春樹に限らず、この世代が描くものは「憧れ」と「悔恨」であることが多いという印象がある(どちらにも「ありえたかもしれないもう一人の自分」が存在する)。こうしたことを描くこと自体は何ら批判すべきことではないが、「現代」を舞台に「若者」を主人公にするのなら、その主人公は「作家の分身以上のもの」(それが「実際の」だろうが「ありえたかもしれない」だろうが関係ない)であって欲しい。もう少し言うなら、現代を生きることを肯定する物語として描いて欲しい。