大塚英志「スターバックス文学論(なんだか)」小説TRIPPER 2003年秋号

  1. また例によってわざと物議を醸すような書き方をしているが、提示されているのは興味深い問題ではある。'80年代文学で行われていた方法、例えば
    • 商品ブランドのような、時代に特有の「固有名」の羅列の中に人物を描くこと
    • ジャンル違いの分野からの引用を多く行うこと
    • 「架空」の人物・書物・出来事を、それと明示せず、実在した事物の中に混ぜて作品世界に投入すること
    は、現在の「新しい」とされる文学の方法とどう違うのか。舞城らの「ミステリ、アニメの構造をそのまま流用したスタイル」「サンプリング」などを評価する人たちは、そのあたりをちゃんと踏まえた上で評価しているのか。
  2. もう一つ面白かったのは「責任」という概念を扱っていることである。大塚英志は「固有名」を持つことと「責任」を結びつけ、「固有名」を持たないことを「責任をとる意志が無い」こととみなしているようである。しかし、「固有名」を持つことは「責任の所在を明かす」こととは結びつくが、それではその「責任」とは具体的にどういうことか、ということには結びつかない。実は、大塚英志が本当に問題にしたいのは、具体的な「責任」の中身の方ではないか、という感じも受ける。
  3. 文学は虚構を形あるものとする装置でもあるが、『村上龍限りなく透明に近いブルー』のリアリティを保証しているのは、主人公が作者名と同じである、つまり、作者が経験したことだから本当だ、という1点にしかない』とかつて江藤淳は指摘した(らしい)。そして、作品のリアリティを作者の経験に求めるならば、その作品が表し、そこから読み取れる世界観が「現実」のものである、と作者は言っているのと同じである。従って、それを「現実」と認識した読者に対して、そのことに作者は「責任」を持つことになる。その責任のとり方には、例えば多くの私小説作家のように、作家自身がその世界観通りに生きて、こういう世界観で生きれば、こんな生き方・死に方をする、ということを実際に見せるとか、そもそもその作品が「現実」ではないということを読者にもわかるように示しておいて責任を回避するとか、そんなことに責任は生じないという態度をとるとか、作品世界と現実世界の溝を埋める方策を実際に考えるとか、まあいろいろあるだろう。大塚英志が、舞城および彼を「純文学」に引き込んだ人に言いたいのは、今後そうした「責任」が現れてくるだろうことを自覚しているのか、ということにあるような気がする。