笠井潔、加藤典洋、竹田青嗣『村上春樹をめぐる冒険』河出書房新社(ISBN:430900699X) ※現在、品切れ中のようです

  1. 村上春樹」と彼が描いた「1980年代の日本」をめぐって、村上春樹と同世代の批評家3人が交わした鼎談が収録されている。この鼎談自体は、1990年(昭和天皇崩御ベルリンの壁崩壊の1989年と、湾岸戦争の1991年の合間)に行われた。ここで3人が「村上春樹が描く世界」と認めているのは、次のようなものである。
    村上春樹の小説の主人公は、世間一般の道徳・倫理とはまた違った「自分なりの規範」=「格率」を持って、生きる/世界と対峙している。しかし、作品を重ねるにつれ、作品の主題は、彼らの「格率」の根拠が揺らぐ(徐々に消えていく)様子へと移っていく
    笠井潔はその規範が揺らいでいくこと(特にその規範を批判的に見る目が弱体化していくこと)に対して批判的であり、加藤・竹田はそれが現代日本に生きる人間に共通した問題(特に加藤にとっては自分自身の問題)であるとして評価している。
  2. この本で、笠井潔は「外部」、加藤典洋は「回収されない否定性」という言葉を使っている。これらは、私の言葉だと「対抗性」または「オルタナティブ性」というものになる。「戦後体制」に対する「全共闘」、「共同体」に対する「個」、「日本」に対する「アメリカ」という具合に、「実際に自分の周りにあるものとは別の可能性の世界を探り、その世界に合わせた規範で動く」ことが彼らの「格率」だったのではないかと思う。しかし、対抗すべきものが弱体化し、それとともに「もう一つの別の世界」の魅力も色褪せていく(その魅力は「〜でない」ことだったのに、実際の世界も「〜でない」ものになってゆくため)と、そうしたことに拘泥することが何かの冗談のように感じられるようになる。そうなってしまった人が進む道は、ほとんどパロディと化したその格率を守り続けるか、その格率を放棄して世界との関わり自体を止めてしまうか、世界との新しい関わり方を見つけて別の格率を作り上げるか、ということになる。
  3. しかし、「新たな格率」を作る上で、3人が共通に非難する方法がある。それは、「新たな対抗」を作り出し、それをこれまでのものと置き換えるやり方だ(実際、これに近いことは、1990年代に「反戦」「反原発」「エコロジー」「フェミニズム」といった形で現れることになる)。さて、それでは?というところで、3人の方向は違ったものになる。竹田青嗣は「エロス」という概念をキーに、自分自身の「生」を全面肯定するところからすべての社会関係を導き出す「実存論」へと進む。加藤典洋は「対抗」という位置に立つことを徹底して回避しながら、彼なりの「格率」を探る。そうした中に、個人の「格率」が「世界」につながることを示す仕事(例えば『日本の無思想』におけるアレントを引用した論)と、「敗戦」から眼を背ける/それが現在につながっていることを否定する意見に異議を唱える仕事(個が全体につながるのは普遍的なものだ(だから「敗戦」という現象の背後にある「個」をできるだけ救いたい)という思いと、「否定」が「対抗」と重なるという気持ちもあるのだろう)がある。笠井潔はこの時点で既に「降りている」感じがあるが、今も70年代とのケリをつけるところで逡巡しているような印象がある。