仲俣暁生「極西文学論序説 (3)」(群像2003年11月号)

  1. 今回は、「旅行」→「その準備・装備」→「『バトル・ロワイアル』と『死のロングウォーク』」→「スティーヴィン・キングと村上春樹にとっての「恐怖」」→「現代日本作家(主に星野智幸作品)にとっての「日本」」→「森」、という流れの中で、「極西」という言葉に込められた意味が明らかにされている。開拓時代のアメリカがフロンティアを目指して西へ進んだように、'60年代アメリカでは、ケルアック『路上』、ビートルズ『マジカル・ミステリー・ツアー』に代表されるような、「未来」と「自由」を求めて、西へと旅する動きがあった(当時の「西(=カリフォルニア)」には、「太陽」と「ドラッグ」があった)。しかし、今の日本には、「フロンティア」という言葉に象徴される、自分達が自由に何かを作り上げるための「土壌」がどこにあるのか、それを指し示す具体的な指標も、象徴も存在しない。
    日本という場所が、内側にかつてのフロンティア(=西)を抱え込んだまま行き先を失い… 時間も空間も指標をなくしており、どこへ向かおうと外へでることができない。…1960年代後半以降に生まれた作家は、自分達の生きる場所と時代が「極西」であることによって生じたそのような問題を作品内で鮮明化しつつある。
  2. ここで、最近の日本文学では、「森」が「現実」に対する「異界」として描かれ、ある種の装置として機能している、という話が出てくるのだが、「森」の話をするなら、当然ナウシカの「腐海」にも触れるだろうと思っていたら、出てこなかった。宮崎駿の名前は出てくるので、構成上の問題かもしれないが。
  3. あと、どうでもいいことですが、毎回サイモン&ガーファンクルを出すのは何かの「縛り」なんでしょうか。最後は「明日に架ける橋」で終わりたい、とか(笑)