北田暁大「嗤う日本のナショナリズム」(雑誌「世界」2003年11月号)

  1. 岩波の雑誌に「2ちゃんねる」論が載っているらしい、ということで読んでみたのだが、「2ちゃんねる」に限らず、最近の「繋がっている」ことを重視するコミュニケーション様式についての論考として面白かった。簡単に議論を紹介すると、
    • 80年代の日本のマスメディア(特にテレビのバラエティ番組)は、楽屋オチ、パロディ、業界ネタといった、作り手側の「内輪感覚」を全面に出すスタイルが主流となり、受け手側はそれらを楽しむためのリテラシーを発達させていった。
    • 90年代半ば以降の若者たちのコミュニケーションは、携帯電話的な《繋がり》を重視したものになったと言われている。つまり、現在のコミュニケーションは、何か共通した話題・目的のために行われるものというより、「繋がっていること」自体を保証するものとして存在している。
    • 2ちゃんねる」のような匿名掲示板には様々な言説が登場するが、実はここで重視されているのもやはり《繋がり》である。そして、不特定多数の人間が《繋がる》=「内輪感覚を共有する」ためによく利用されるのが、「(誰でも知っている)マスメディアをネタに」「(80年代のバラエティ番組を楽しむ感覚で)情報の「裏」を読んだり、パターンを切り出してパロディ化したり」する方法である。
    • こうしたやり方は「マスメディア」に対するアイロニカルな視点を持つという点で、本来は批評性を持つものだが、現在の「2ちゃんねる」では《繋がり》を第1の目的とするためか、批評性は消え、替わりにロマン主義的なものが台頭している。
    全体として、そんなに難しい話をしているわけではないと思うのだが、点から、いくらか議論のポイントがズレて伝わっているような気がする。
  2. 一番の問題と思われる「ロマン主義」の定義だが、これは一言で言い換えるのが難しい言葉で、私自身、著者が使っている意味で理解しているか確信はない(「はてな」にキーワード登録されているので、以下を読む前にその定義には目を通しておいて下さい)。「〜主義」というのは、結局、「何に価値を置くか」ということだが、私自身はロマン主義を「今・ここで・現実に・自分自身が感じている感情」に価値を置くことだと思っている。ロマン主義の良いところは「自分自身の生を肯定し、そのエネルギーにあふれている」という点だろう(そういう意味でも「シニシズム(冷笑的態度)」とは対極にある)。しかし悪く言えば、「自分が没頭していることを無条件に/無批判に認め、そこに価値を見い出している」という面もある。「嗤う日本のナショナリズム」ではこの否定的な側面が問題にされていると思う。つまり、自分自身が価値を認めていることを他人にも認めてもらおうと思っても、批評的・客観的な面が失われているため、論理的な説明より、同じような「感情」を共有する=共感を求める方向へと流れがちになる。ここに「危うさ」がある、ということだろう。実際、「2ちゃんねる」では、「正義」「感動」のような、強い感情を共起させる方向に物語化されたものが多く流され、参加者はその感情を共有することを強制される、という面がある。(もちろん、それは《繋がる》ためのツールとして強力に機能しているということでもある)
  3. 全体として、北田氏は、形式主義が内容や目的を形骸化し、替わりにそこに強い「感情的なもの」が流れ込んでいる現状(「コミュニケーション」が、交わされる内容に関係なく、《繋がり》を保証するツールとなっていることと同型)に強い関心を示しているように思う。これに該当すると思われる部分を抜き出してみると、
    2chとは、内容を付随化する形式主義、《繋がり》を求める同時代的リアルの徴候なのである
    初めはマスコミの建前(形式)/実態(内容)に対する理に適った批判であったものが、やがてアイロニー的コミュニケーションの継続を目的化するようになり、形式/内容の差異を無理やりにでも読み込もうとする陰謀論に帰着してしまう
    「『朝日』を批判すれば、隣に座っている年齢も社会的立場も異なる人とも、とりあえず話のキッカケがつかめる、そんな風に感じ取れた(小熊英二・上野陽子『《癒し》のナショナリズム』)」と述べているが、同じことは2chについてもいえる。嗤いは、もはや批判的アイロニーとしての機能を喪失し、《繋がり》を確証するためのツールとなっているのである
    その傾向は季刊雑誌「d/sign」(太田出版)第5号から始まった、著者の連載のタイトルが「「かたち」としてのジャーナリズム」である点からも垣間見えるような気がする。「世界」所収のこの論文においても、そこを見逃しては不味いという印象を持った。