加藤典洋『テキストから遠く離れて』講談社

テクストから遠く離れて

テクストから遠く離れて

  1. 「作者の死」をめぐる、バルト、デリダフーコーのテキスト論を著者なりに整理しながら、著者自身の批評の方法論を書こうとした本。著者の整理によると、
    • バルトの「作者の死」は、「読者の生」(テキストを作者の意図から解放し、読者の自由を呼び込む)に対応し、
    • デリダの「作者の死」は、「主体としての作者の死」(テキストを主体的に書くようでいて、実はテキストに書かされている面がある)に対応し、
    • フーコーの「作者の死」は、「書くことにより分裂する自己」(テキストの作者でありながら、その書いたテキストを読む読者でもある)に対応する(※私には、「分裂後、それを統合しようとして、変革する自己」にも対応するように読めたが、著者は「分裂」を強調する)
    著者にとっての「作者の死」は、「生まれ変わるために積極的に選ばれた死」(現実とは違う自己を表現しようとすれば、違う世界を描くことによって積極的に現実の自分を殺し、別の自分を生み出す必要がある)であり、現代の「小説」を読む場合は、作者が「殺そうとする自己」と「生まれ変わろうとする自己」が何であるか、その「作者」を意識して読まなければ批評は成り立たない、ということが主張される。
  2. 著者の批評の方法論の基本アイデアは、「テキスト」を「言語行為」の産物、とみなすことにある。つまり、「テキスト」自体は、その作者が本当にやりたいことの部分であり、作者の本当の意図は「テキスト」以外の部分も見なければわからないかもしれないし、そもそも何かを伝えたくて「テキスト」を書いたのではないのかもしれない。そして、そうした「テキスト」を批評する方法は、限りなく「精神分析」に近いものとなる。こうした、基本アイデアはまずまず面白いのだが、例えば
    • 「言語行為」論が、吉本隆明竹田青嗣の独創であるかのように書いたり
    • バルトやデリダのテキスト論を用語の定義からして違っていると思われるのにそれを無視して難じたり、
    • フーコーの読解に根本的な誤りがあるように思われる記述が散見されたり
    といったところがあって、これは問題があると思う(人によっては全く受け入れてもらえないだろう)。しかし、第1部の大江健三郎『取り替え子』、第2部の村上春樹海辺のカフカ』に対する批評、第3部の水村美苗『続明暗』の紹介(この作品は、ほとんど同人誌の2次創作の手法(キャラ重視+引用多用)で作られた文芸作品なのである)などは、(それぞれ未読なのだが)面白く読めた。
  3. 加藤典洋は「間違い」「勘違い」をわりと平気で放置できる人のようなので、そこから彼を批判したくもなるのだが、たぶんそうした点からの批判はあまり効果が無いと思う。それよりは、仲正昌樹が「情況 2003年11月号」で行ったように、彼のやり方は、文化的背景の違う相手には通用しない、という点からの批判の方が効くだろう。今回の批評の方法論にしても、彼の批評は「作者」の文化的背景に通じていなければ成り立たない。加藤の言うような批評は、「テキスト自体からは得られないが、批評を書く上で必要な情報(精神分析における患者の背後の情報のようなもの)」を批評者も得ている、ということを、批評者が正しく判断できていなければならないのだが、この保証は極めて弱い。その保証は、「作者」と「分析者」が「同じ現代日本に生きている」ということでしか示せていないように思う。