『風の谷のナウシカ』

風の谷のナウシカ 全7巻箱入りセット「トルメキア戦役バージョン」
「宿命」と「亡霊」というテーマがうまく融合した作品として、コミック版『風の谷のナウシカ』をあげることができるだろう。

アニメ映画版では「宿命」というより「予言」の部分が前面に押し出されてシンプルにまとめられているが、コミック版は「亡霊」の部分が複雑に絡まり、物語を膨らませている。

コミック版は、宿命を生み出したものと亡霊が一致し、その呪縛からの解放がクライマックスとなる。

夏目房之介『マンガの深読み、大人読み』、稲葉振一郎『オタクの遺伝子』

マンガの深読み、大人読み (知恵の森文庫)
オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界

  1. 2冊とも2005年前後に出版されたマンガ評論本。『マンガの深読み、大人読み』の方は、後の夏目房之介・漫画学の萌芽が多く含まており、全体的には幅の広い話題を扱っているが、第2部「『あしたのジョー』&『巨人の星』徹底分析」が間違いなく最大の読みどころである。『オタクの遺伝子』の方は、長谷川裕一というSFマンガ家作品を元に、自閉しがちな「オタク」と呼ばれる人たちが愛する数々の「ガジェット」は本来は外(未来)へつながっていくものとして創作されたものであり、そうであるならば君たちも外へと目を向けるべきだとする、ある種の「啓蒙書」と言えるかも。
  2. 2つの本をほぼ同時期に読んで少し驚いたのは、梶原一騎原作『巨人の星』と『あしたのジョー』、そして、長谷川裕一作『マップス』と『クロノアイズ』シリーズに意外な共通点があるように思ったことだ。それは、「宿命」(『巨人の星』+『マップス』)と「亡霊」(『あしたのジョー』+『クロノアイズ』)である。
  3. 簡単に言えば、「宿命」は自分の前の世代の「計画」がキーであり、それは自分の手で実現できるのか、そもそもその計画に従うべきなのか、ということがテーマであり、「亡霊」はかつて自分と同じ理想を持って行動を共にしながら、途半ばで消えたものの意志を、自分が叶えられるのか、そもそもその意志に縛られて生きるべきなのか、といったことがテーマと言えるだろうか。少年ジャンプ的「友情」「努力」「勝利」とはまた別の切り口のテーマを見せられたようで新鮮であったが、「自分以外の者の意志」と「自分の意志/行動」の葛藤という意味では今日的なテーマでもあるように思える。

デフレ時代の消費行動と社会企業家

デフレ時代はどんなカテゴリのどんな商品も似たり寄ったり、価格も品質もそう変わりはしない。少なくとも、消費者を動かす上で「価格」のランクは下がっているのではないだろうか。そんななかで、企業・商品をアピールする方法として、このところ目につくのが「社会貢献」(わかりやすいところでエコ)である。

これが実際どこまで有効かは知らないのだが、「実際にどのような社会貢献をして、消費者にアピールするか」という点で、これまでの企業・商品と社会起業家が結びついていく事例が増えているようだ。

「世の中不景気な上に不平等、政治も絶対数の多い既得権益者を守るだけ」という風潮ではあるけれども、「こういうふうに社会を変えたい」と具体的なイメージを持っている人には意外と追い風の時代ではないかというふうにも感じている。

付記:こうしたケースを私的に整理すると、社会企業家は

  • 既存企業から見れば、「自社商品・ブランドに付加価値を与えてくれる新種のサービス業」
  • 一般消費者から見れば、「商品・サービスに、「新しい社会作りへの参加」という形で希望・夢という価値を加えるクリエーター」
  • 一般社会から見れば、「公的な社会制度が硬直化・機能不全を起こしている時に、流通・金融・人的サービスなどの流れを変えることで社会システムを変えようとする活動家」

という感じでしょうか。社会企業家自身がどう思っているかは人それぞれですかね。それと、新しい商売が動き出すと、怪しげな話が混じりだすのもよくあることと思います。

ユリイカ2011年1月臨時増刊号『総特集:村上春樹』青土社

ユリイカ2011年1月臨時増刊号 総特集=村上春樹 『1Q84』へ至るまで、そしてこれから・・・

  1. 主に2000年代の村上春樹作品(日本においては2000年『神の子どもたちはみな踊る』から2009年『1Q84』までと、海外における翻訳作品の受容のされ方)に焦点を絞った評論集。村上春樹についてはほぼ語り尽くされた感もあるが、'00年代云々より、評者・インタビュアーが比較的若い年齢層である点に興味を惹かれて読んでみた。
  2. 村上春樹の'00年代作品の特徴を挙げるとすれば「3人称の導入」「社会へのコミットと責任」「多重世界」ということになるだろうか。これらから端的に見えるのは、それまでの『作家は「自分自身の物語」を書いているが、読者もそれを「自分自身の物語」として読んで「構わない」』というスタンスから、『作家が明確に「他者の物語」を書き、それがどのように受け止められるかも意識し、それに対する責任も引き受けよう』というスタンスへの変化であるように思われる。
  3. '00年代以前(というより1995年以前)の村上春樹は、自分を取り巻く状況(おそらくは「日本」の現状)と、それとは異なる参照点(初期作品においては明確に「アメリカ」)の対称・対立から浮かび上がる、現状とは別の生き方/方法を描いてきた、というのが私個人の認識だが、'00年代からはその対称・対立するものを絶対的な位置から相対的な位置へずらしているように思う。つまり、物語の中の対称・対立をよりわかりやすく描くことで、読者自身が内部にはらむ対称・対立を意識させるという方法で、作家のものではない「他者の物語」を浮かび上がらせる。この対称・対立の軸の一端として「オウム事件」または「9・11」の原理主義(つまり本人が作った生き方/方法ではないもの)があり、そこに陥ってしまうことを「魂のハードランディング」、そうではなく、そうした狭間の中から自分自身が選択した生き方/方法を見つけることを「魂のソフトランディング」と呼んでいるのではないだろうか。

仲俣暁生『極西文学論』晶文社 極西文学論―West way to the world作者: 仲俣暁生出版社/メーカー: 晶文社発売日: 2004/12/25メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 23回この商品を含むブログ (61件) を見る

  1. 前著『ポスト・ムラカミの日本文学』と同様、日本文学を題材に同時代の日本文化を描写しようとしたもの。前著に引き続き、現在の日本文学(=日本文化)は「アメリカ文化」の影響下にあり、「過去の日本文化」からは断絶している、という視点を継続・発展させた論で、タイトルの「極西」とはアメリカから見た日本の位置である。
  2. しかし、「アメリカ」と「日本」という地勢的な対比以上に、本書で重要なポイントとなるのは、「垂直的視線と水平的移動」「見ることと書くこと」の対比である。著者は、前者に懐疑的で、後者に身を置こうとする。これは「批評家」的立場と「表現者・創作者」的立場の対比とも言え、後者の立場に立つことは、現代日本を共に生きよう/作っていこうという意志の現われのようにも思える。
  3. 逆に、批評家的立場(と言うより受動的立場、苦闘することを回避する立場なのかもしれない)は忌避されるわけだが、どうも必要以上に「悪いもの」とされているようにも感じられる。例えば、「ハイ・イメージ」に関する吉本隆明批判はどうだろう。見下ろす・俯瞰する「視線」をそのまま「態度」に置き換えて批判している(「見下ろす視線」にプラスの価値を見出すこと=他者を見下ろす態度をとること)ように読めてしまうが、単に「俯瞰する視点」はツールとして便利、ということではダメなのだろうか。前著の感想として、著者は「「敵」の存在を想定している」のではないか、と書いたが、本書では、「敵」がより具体的なものとして存在しているように思えた。

仲俣暁生『ポスト・ムラカミの日本文学』朝日出版社(2002年5月発行)文学:ポスト・ムラカミの日本文学 カルチャー・スタディーズ作者: 仲俣暁生出版社/メーカー: 朝日出版社発売日: 2002/06/01メディア: 単行本購入: 6人 クリック: 36回この商品を含むブログ (61件) を見る

  1. 現在の日本文学は、過去の「文壇」とは完全に断絶したものとなっており、それは 70年代末の二人のムラカミ=「村上春樹」「村上龍」の登場に始まり、80年代の日本文化において決定的なものになったのだ、ということを示した本。現在の日本文学(だけでなく日本文化全般)が'80年代に準備されたものであることがわかりやすく書かれているので、70年末から80年代を未経験の(または当時幼かった)今の10代、20代の人には、現在の日本文化を考える上でいろいろ示唆に富む内容であると思う。(経験している人にも、過去からの連続を再確認できるという点で意味があるだろう)
  2. 個人的な話をすると、70〜80年代は、日本文学には全く興味がなかった(村上春樹を読み始めたのも話題作が文庫化されるようになった'80年代後半以降だった)ので、当時の日本の文化状況を、当時は「低調な」ものに見えた日本文学が、これほど見事に表現していたということに結構驚いてしまった。しかし、この本は'80年代を「現在への連続」という面から書かれた本なので前向きな内容になっているが、「過去との断絶」という面から見ると、ちょっとやるせない時期でもあったのである。そのあたりは、戦前生まれの著作家の当時のエッセイ(小林信彦あたり)で「愚痴」を読めばわかるが、明治維新で一新、太平洋戦争で壊されながらも残っていたものが、このバブルの乱開発の時期にほぼ消滅してしまったのである。まあ、それはまた別の話なのだが。
  3. さて、この本で「問題」となるのは、「現代の女性作家をほとんどとりあげていない」ということを、わざわざ本の中で明言していることだろう。その理由は、
    彼女らの書いている小説が、最終的には女の人の「個」の問題に尽きてしまうのではないか、と思うからです。…でもぼくには、男だけ、あるいは女だけの個の問題のさらに先にある、共に生きたり、ときには共に戦ったりする仲間のことが気になるのです
    とあるので、特に女性に限らず、「個」の問題に拘り、「他」や「社会」を見ていないと思われる作家を、この評論では対象外にした、ということなのだろうが、
    そうした女性の書き手の問題意識をうまく受けとめ損ねているところも大いにあると思います
    とあるので、特に女性作家の描く「個」の問題が、どのように「他」や「社会」に通じるかを捉えきれていない、という思いもあるのだろう。個人的に気になるのは、著者が「共闘できるかどうか」を一つの評価軸にしていることで、それは「敵」の存在を想定している(「いまでは戦う相手は拡散している」という表現があるので、「単純な敵」を想定しているわけではないのだろうが)ということに他ならない。著者が捉え損なっているのは、「敵」を描かないことで「他」や「社会」を描く方法なのではないか、という気もする。(多和田葉子ら、ここで挙げられた女性作家の作品は読んだことがないので、全然見当違いかもしれませんが)

仲正昌樹「加藤典洋におけると」(雑誌「情況」 2003年11月号)

  1. 高橋哲哉との「敗戦後論」をめぐる論争を手がかりに、加藤典洋の<公共性>が批判されている。この論争における加藤の主張は次のようなものだ。
    • 「敗戦」以降、それまでの日本の「共同体」は崩壊した
    • しかし多くの日本人は、いまだにその崩壊した「共同体」に依拠した言説から逃れられずにいる
    • 共同体内の「身内」の感情に頼るような言葉は、その共同体が存在しない現在では、他人に説得力のあるものにはならない
    • 今、必要とされているのは、有効性を失った過去の「共同体」を清算し、新たな「共同体」を再構築することである
    • それには、「公共の場」で「他者」と積極的に議論を交わし、お互いを説得しうるような<公共性>を持つ言葉を作りあげていくことだ
    仲正昌樹は、この「<公共性>の立ち上げ」という部分には同意を示すが、加藤が立ち上げようとする<公共性>が、「日本」(その「母なる自然」というイメージ)に囚われたものである点を批判する。つまり、これから新たに立ち上げる<公共性>には、いろいろな可能性(地理的にも、構成人員的にも)があるはずだが、加藤はそれを(たぶん無自覚に)「日本」と前提し、それ以外の可能性を考えようとしない。それは出発点からして既に<公共性>を欠いたものなのではないか。
  2. 加藤典洋の「文芸評論」以外の仕事(「敗戦後論」や『日本の無思想』など)からは、彼の問題意識が、「公」的(社会的)なものと「私」的な(個人的な)ものの関連性にあることが伺える。もう少し突っ込んで言うと、彼は、「私=(加藤典洋という)個人」から「公=他者・世界」をどのように導き出すか、ということをずっと考えているように思う。そして、そのことは彼の文芸評論の仕事にもつながっており、つまり、「他人のテキストを読んで批評する」ことが「他者と意見を交わして公的なものを導き出すこと」に相当しているのではないだろうか。『テキストから遠く離れて』は、テキスト論的「作者の死」を「作者の再生」に置き換える試みでもあったが、それは「読者の一部の死と再生」でもあり、作者が書くことで現実の自分を殺し、新たな生を得るのと同じように、読者は作者の生を受け入れることで、自分の一部を殺し、新たな生を授かる(この「新たな生」の部分が「自」と「他」が統合された「公的な」ものに相当する)というイメージを持っているのではないだろうか。
  3. しかし、そのようにして導き出された、彼の「公的なもの」が、本当に<公共性>を持つものなのかについては、あまり説得力のある議論がされていない。単に「それはあるはずだ」「なければならない」という個人的な思いのみが先行しているように感じられる。そして、「敗戦後論」で「あるべき」<公共性>の姿を無自覚に「日本」に重ねていたように、彼が批評を通して作り上げているはずのもの(それは「現代日本」の像と重なるだろう)も、批評を行う以前から彼が既にイメージしていたものに過ぎないかもしれないのである。加藤典洋は、自分の批評を外国人に伝える仕事をしてみてはどうだろうか(その能力はあるはずだ)。その仕事を通せば、彼の(私的な)「公的なもの」の強度もハッキリと計れるはずである。